八代市事業移住・定住推進事業

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移住先レポート

両親のことや子育ての環境を考え八代市にUターン

15年暮らした石垣島からUターンし自家製酵母のパン屋さんを開業した大久保由紀子さん

 約15年過ごした南国の石垣島から、生まれ育った八代市にUターンしたのは3年前。自家製酵母を使い、石垣で始めたパン屋「やきむぎや」を、店の雰囲気もそのまま八代市塩屋町で開店した。広さ20平方㍍ほどの店内には、10数種類のパンがかごに入れられて並び、パン生地をこねる際に使うミキサーや焼き上げるオーブンなどがレジのカウンター越しに見える。「お店というよりは工房に近いかも」。この場に立った時に思うことはただ一つ、「小さな幸せを感じながら食べてもらえるパンを作りたい。そんなパンを、ふるさとの大事な人たちに届けたい」。

幸せ感じたパンが原点です

 20代の半ば頃、RKK熊本放送の現場レポーター「ミミーキャスター」の一人(当時は旧姓の「清田由紀子」)として3年間、熊本県内を走り回った。パン屋を取材することも多く、焼きたてのパンを「ハイッ」と渡された時の何とも言えない幸せ感に何度も魅せられていた。キャスター終了後、熊本市内のパン屋で働いただけでなく、パンの勉強をするためドイツにも行った。

 ドイツに行く直前の2005年3月、RKK時代の元上司が家族全員で沖縄県・石垣島に移り住み、経営していたペンションに遊びに行った。そこで出会った元上司の息子と交際が始まり、ドイツから帰国後に結婚。ペンションを手伝うことになった。とはいえ、やっぱりパン屋の夢も捨てがたく、ペンションに併設する形で始めたのが「やきむぎや」だった。店名は、「麦を焼いてパンを作る」と言うことに由来する。つまり「一つひとつのパンはみんな、麦料理なんです」。

 温度など細心の注意を払って自家製酵母を育て、島のバナナや黒糖、マンゴーなどさまざまな食材を使ったパンを出した。石垣の人たちのおおらかさの中で、「パンを作って売る」というよりは「作ったパンを皆さんにお裾分けして、食べてもらっている」という気持ちになったという。「やきむぎやのパンを食べたい」と言ってくれる人もたくさんいた。

夫婦での「やきむぎや」再スタート

 販売までのすべてを一人でやっているため、大量に作ることはできないが、毎日が楽しかった。ペンションの仕事に忙しい夫の公輔さんも応援してくれた。〝南国〟というだけではない温かさに濃密に触れた石垣時代を思い出す時、由紀子さんの目には思わず涙が光る。

 そんな時、遠く離れたふるさとを熊本地震が襲った。八代に住む両親とは電話で状況を聞くぐらいで、「何もしてあげられない」という思いが募った。さらに、いつもポジティブだった夫の母が、がんを患って亡くなった。ペンションをたたんで熊本に戻ることになり、由紀子さん一家は八代に移ることにした。

 ただ、熊本市に隣接する益城町出身の公輔さんにとって、八代は不慣れな土地。街を知るためにしばらくの期間は会社勤めなどをすることも考えたが、パン屋用の物件が自宅近くで見つかり、Uターン早々に開店できることになったことから、夫婦での「やきむぎや」再スタートになった。とはいえ、由紀子さんとしては「夫をパン屋に無理やり巻き込んでしまったかもしれない」という思いがあり、約1年後、公輔さん自身の八代でのコミュニティを作るためにも、勤めに出ることにした。仕事探しの後、タクシー運転手として市内や近隣地域を走り回っているという。

ただいま~八代!

由紀子さん自身、Uターンしたことは「ただただ『ただいま!』という感じです」。長く離れていたために八代の街の変化に戸惑うこともあるが、高齢出産で子ども(4歳)を育てていることや両親の世話などを考えると、「勝手知るふるさとを選んだことはベターだと思う」という。

 パン作りは朝が早く、午前3時ごろには店に入る毎日だ。レーズンを水につけて発酵させ、2週間近くかけて酵母を作る。「酵母を見ていると、本当に生きものだなぁと思います。生きものだからこそ、『いい香りだね』『元気かな』などと話しかけています」。そのうえで、「たくさんの人を癒せるパンと、石垣島で感じたことを、大事にしていきたい」。