両親は八代市出身だが、自身は東京で生まれ育った。小学生のころ、父親の実家がある中山間地の八代市坂本町に帰省するたびに見る光景は、強烈な原風景となった。引き寄せられるように両親の故郷に〝戻った〟のは27歳の時。頭にあったのは「坂本で働き、住み残る」こと。今、2020年7月の球磨川豪雨災害で甚大な被害を受けた坂本町地域で拠点施設となっている「道の駅 坂本」の駅長として、地域の将来を考えながら、復興に取り組んでいる。

毎年夏休みに入るとすぐにブルートレインに乗り、母や弟と坂本町に来た。川があり、山があり、夏祭りがあり、お盆には多くの親戚が集まった。地元の子どもたちは1日中、川遊びをして、潜ったり釣ったりしては魚を捕って食べ、真っ黒に日焼けし、たくましかった。東京では味わえない楽しさがあった。夏休みが終わる直前まで坂本で過ごした。小学5年時にサッカーのチームに入ったことで坂本には行けなくなったが、そうした記憶は脳裏に焼き付いた。
大学を卒業して1年間ほど、バイト生活をしながら、各地を旅したりしていた。そんな時、祖母が骨折を機に認知症の症状が出たため、東京に呼び寄せて家族で面倒を見ることになった。介護に興味が湧いた。自宅からさほど遠くないところに国内初の認知症グループホームを設置した社会福祉法人があり、まずはボランティアで手伝い始めた。
ただ、何か違和感があった。通信教育のNHK学園で介護福祉士やケアマネージャーの資格の勉強を始めた中で「地域福祉」という考え方を知り、それを各地で実践している人たちに会いに行ったりした。ちょうど親戚が、認知症による要介護者向けのグループホームを坂本町で立ち上げるというので、声がかかった。坂本町での夏の記憶と地域福祉。2002年、思い切って移り住んだ。親戚関係の空き家などがたくさんあって住む場所には困らなかったし、独身の身軽さもあった。結局、祖母が使っていた古い家に入った。
このグループホームで約3年働いた後、児童福祉への関心もあって八代市内の乳児院に転職。施設長を除くと唯一の男性スタッフだった。指導員として約10年勤務。さらに、水俣市にある水俣病患者など障がい者の福祉施設から誘われて移り、坂本町から毎日、水俣市まで片道1時間近くかけて通った。
その間に、坂本出身ではないが、同じ八代市出身の女性と結婚。子どもも生まれた。子どもと過ごす時間を作りたかったことなどから、地元の坂本町で仕事を探し始めた。「やっぱり自分にとって原風景。この坂本で働き、住み残りたい」。ハローワークで求人を見ると介護職や保育士ばかりだったが、たまたまポツンと「道の駅坂本」駅長の募集が出ていた。

「何か面白いことができるかも」。直感があった。その頃の坂本には、自分より少し年下の20~30歳代だが、それぞれ独自の感性を持った人が何人もいた。球磨川のリバーガイドの男性、地元ケーブルテレビ局でリポーターをしていた女性、球磨川沿いの木造旅館を再興した男性……。「彼らの活動と道の駅とでジョイントできる」。2018年11月、「駅長」の仕事に就いた。
一方、古民家再生に取り組んでいる鹿児島県南九州市の「コミュニティ大工」と知り合い、自宅のリフォームに着手した。「子どもが少なくとも(高校卒業の)18歳まで暮らせる家にしたい」という考えからだった。泊まり込みで作業してもらい、2020年5月に完成。しかし、直後の7月、球磨川豪雨災害に飲み込まれた。球磨川の支流沿いに建つ自宅に流れ込んだ水は、1階の天井近くまで来た。エアコンのすぐ真下の壁に、今も浸水の跡が残っている。半日経って水が引き、ようやく脱出した。

その後は、被災した「駅長」として坂本町地域の被災情報を発信しつつ、被災者と支援に入ってくれる人たちとのつなぎ役に徹した。仮設住宅などを回って被災者側の個々のニーズを聞き取り、支援する側の団体それぞれの得意な作業分野とマッチングさせることで、効率的な復旧作業が進んだ。「道の駅」がその拠点になった。
自宅については、被災した周囲の家が次々と解体される中で、夫婦ともに「残したい」という思いがあった。ただ、かなりのかさ上げが必要だったことなどから、居住は断念せざるを得なかった。それでもコミュニティスペースとして再建することを決断。先の「コミュニティ大工」に再び相談し、他の被災家屋から出た板材などを使って改めてリフォームした。

今、「この坂本に戻りたい」あるいは「住み残りたい」と思っている人たちのために何ができるかを考えている。「さかもと残す繋ぐプロジェクト」を妻や仲間と立ち上げた。空き家や子育て環境の整備などを市に要望したり、「道の駅」の物販であちこちに出向いて坂本のPRをしたり。「気持ち的にも物理的にも『坂本住民になった』と改めて感じています」。
